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2008年7月の1件の記事

『アキバ通り魔事件をどう読むか!?』を読む

51jvtoanhul_sl500_aa240_ 7月29日に発売された『アキバ通り魔事件をどう読むか!?』(洋泉社)をむさぼるようにして読了。

事件以降、この件について識者がどんなコメントを出すかが気になって仕方ない。

「同業者がどんなお仕事をされているかお手並み拝見」的な野次馬根性もあるにはあるが、それ以上に「上手い分析」を読みたいという願望が強い。腑に落ち、納得できる解釈が欲しいのだ。
事件本体より解釈に興味のある私は、完全なる「フレーム憑き」(by斎藤環氏)である。

事件本体よりも解釈に関心があるとは不謹慎、との誹りもあるだろう。だが、どんな事象も解釈によってのみ意味を与えられる。貴重な命が奪われた事件だからこそ、有益な意味を引きだす有益な解釈が施されねばならない。それは同様の事件の再発防止に寄与するかもしれないし(こんな特殊な事件が再発するわけないといった意見もあるが、本件以降の青梅のスーパーの通り魔、八王子の書店の無差別殺傷は「若い男」が「無関係の人(女性に偏っていたけれど)」に危害を加えたという点で同類)、かような事件が連鎖的に生じてしまう社会とはいったいどんな社会なのか? を考える手がかりともなる。とするならば、識者のコメントの巧拙を気にすることは、倫理的に間違った態度ではない、と思う。

で、この本であるが。
事件直後から7月半ばあたりまでに新聞雑誌で発表された一連の署名入り記事や、発売ギリギリに原稿を間に合わせた感のある『中央公論』や『世界』(ともに8月号)がコメント戦の第一ラウンドだとすると、そこで語られた言説を相対化する言説が盛りこまれている本書はコメント戦第二ラウンドの様相を呈している(*1)。

こうやって言説のレイヤーが重ねられていく様を観察する身振りはいかにも「言説分析屋さん」(大御所の先生方が「院生が習作でよくやりそう」とか「こんなもんホンモノの言説分析と違う」とか吐き捨てるようにおっしゃるタイプのほうの。へえへえすんまへん)ぽいでしょ、と自分の立ち位置わかってますよアピールも交えつつ、本書のポイントを挙げるとすれば、次の三点を挙げることができる。

第一ラウンドで目立っていた、フリーター論壇的「これはプレカリアートによる社会への異議申立だ」といったタイプの言説が相対化されていること。雨宮処凜氏や赤木智弘氏の論考と並んで、彼女らの主張を批判する言説も同時収録。とりわけ浅羽通明氏の批判は、今後右肩上がりの経済成長なんてありえず、企業に労働分配率を上げさせるにも限界があるという動かしがたい事実を前に、フリーター論壇がこれからどんな言説戦略を取れるのかを問いかけるものでもある。

プレカリアートの運動は、新自由主義的改革を是正する闘いとして意義あるものといえよう。〔中略〕だが、彼らの運動も、遠からずデッドエンドへとぶつかる。法規改正でピンハネやリストラが困難となったとしても、国民全体へ余得が回りうる経済回復はきわめて困難だからだ。
〔中略〕
プレカリアートの闘いは、日本史上もっとも豊かな子供時代を過ごした世代が、その既得権にしがみつく抵抗勢力と化して、「捨ててこそ浮かぶ瀬もある」時代の到来に気づけず、かつての安楽よもう一度と不毛な足掻きをしているに等しい(113頁)。

澁谷の立場はどうなのかと問われれば、労働者には「健康で文化的な生活」を送れるだけの賃金と、雇用不安にさいなまれない精神的安寧が保障されるべき、という立場である。だが、「低収入だから結婚もできない」などと言って、家族給を男として当然主張していい権利とばかりに要求する男性労働者および、そうした男性を応援する識者にたいしては「知らんがな」という感想しかない(詳しくは「『低収入だから結婚できない』への違和感」『ふぇみん 婦人民主新聞』6月5日号参照)。
「格差是正」という言葉に集約される、労働者や働きたくても働けない人たちの生活を保障すべしという声には賛同するが、そこに「結婚」を持ちだすな、持ちださなくても労働者や働けない人の権利は主張できるではないか、というのが私の立場だ。

そういう立場からすると、フリーター論壇にたいする浅羽氏と私の距離の取り方には違いがあるものの、上記の引用部分および「闘えば何かもらえるだろうと夢みるプレカリアート闘争」(*1)の「プレカリアート」の部分に「男性不安定労働者」を代入すれば、浅羽氏のこの文章にうなづける所は多い。

第二に、「この種の凶悪事件にコメントをする」という作業そのものを相対化する論者が目立つこと。アイロニズムの流行ここに極まれり、ってことよりは、「心の闇」とかわかったようなわかんないようなことを言っておしまいの凡百の語りの形式とは一線を画したいというクリエイター魂、あるいは、わかりやすい言説を期待されようとも自分の口からはぜったいに語ってやるものかといった書き手としての良心、によるものと思われる。たとえば、じじつ沢山あった「語り出し」にたいする、平川克美氏のこんな批判。

この種の事件があったときに、必ず言われる常套句的な言葉、つまり「犯人の犯行は絶対に許すことができない。そのうえでこの事件の原因を考えてみたいのだが……」という語り出しは、今回の事件に限ってはまったく無効であり、むしろそのような自己と自己の社会(市民社会)が持つ倫理規定の無謬性を疑わないような視線こそが、この犯罪の根底に潜んでいる(119頁)

あるいは、特異な事件に社会の矛盾を読み込もうとする立場と、個人の異常性を強調する立場は、違っているように見えてじつは同じ言論ゲームの構成要素でしかないとする、今後のコメント戦の行く末を牽制するような芹沢一也氏の言及(93頁)。

あるいは、今や事件にコメントをする「識者」は「2ちゃんねる」における批評に敏感にならざるをえないと、「識者」の特権性を剥奪する機能がネットにおいて稼働していることを指摘した森川嘉一郎氏のコメント(106頁)。「識者」のうちじっさいにどれだけの人がネットにおける評価にビクついているのかは定かではないが、すくなくとも「識者」のひとりに違いない森川氏がネットコミュニティにおける審判をとても気にしていることは、ここに明らかだ。

そして、事件当初「この事件は『オタク』の問題ですよね、ね」とコメントをおねだりするメディアの期待を裏切って「これは政治的問題」と言い切っていたという東浩紀氏が、一カ月経って「政治問題」言説がありふれてきたために敢えてする「事件の根底に、『ゲーム的』と呼ぶのがやはり適当なある種の現実感覚が見えてくる」(59頁)という見立て。
正直、この見立てには「天の邪鬼」という言葉が思いうかび、商品=言説の差異化の作業もタイヘンねーと思ったが、「現実」の多様性の確保がまた批評家の仕事のひとつであるならば、氏はその職務を真摯に遂行したいだけなのだろうと拝察した。

第三に、25人の論者を揃えた126頁のムックの中でたった数行だけなのだが、犯人の「男性性」に触れている文章が存在すること。勢古浩爾氏による次のくだりである。

考えてみれば、破裂するのは男ばかりである。女たちは韓国やアメリカの芸能人を出迎えるために羽田に何千人もつめかけ、ジャニーズのコンサートにでかけ、ブランド品にうつつを抜かし、食べ放題ランチに殺到し、美術館や音楽会やカルチャーセンターにでかけ、本を読み、母親や友人と海外に行く。ところが男たちは、自分の自尊心の取り扱い方ばかりを気にかけているのだ。舐められてたまるか、力を見せてやる、というように(35頁)。

たった数行のジェンダー視点言説に喜ばなければならない奴隷根性に我ながら嫌気がさすが、また、引用箇所は女を享楽をむさぼることで悩みを先のばしにしている「アホ」として描写している気がしないでもないが、無いよりはマシ。勢古氏の『こういう男になりたい』(筑摩書房)は首をかしげながら読んだ記憶があるが、この文章は、いい。

なお、この件を「男が起こした事件」としてジェンダー視点込みで捉えるよう注意を喚起する言説としては、北原みのり氏の「男の暴力」(『世界』8月号)が白眉。
「ジェンダー枠」が一個しかないわけではあるまいし、もっとジェンダー・センシティブな言説が出てきてもいいように思うけれど、いまのところ『週刊金曜日』6月20日号における中山千夏氏のコメントと、沼崎一郎氏の『くらしと教育をつなぐ We』8/9月号、10/11月号掲載の文章(未確認)ぐらいしか知らない。そして、「保守派」さかもと未明氏の『産経新聞』7月2日の文章も、内容はともかく「男性性」の面から本件を捉えたものとしてジェンダー系研究者や活動家の口の端にのぼっていた。

この件を、不安定雇用者への新手の排除に堕することがなきよう意識的になりながら「不安定雇用者が起こした事件」として読みこむ論者は多数いるのだから、「脱ジェンダー化された“人間”などではない、ほかならぬ“男性”が起こした事件」として読みこむ論者がもっといてもいい。そこに私も連なりたいと思っている。

さて、明日は『論座』の発売日。「ロスジェネ甘やかし雑誌」という非難をむしろ有りがたく受けとめてきた当誌がいったいどんな解釈を見せてくれるのか。主要論壇誌の中では、事件から刊行までもっとも準備の時間があった一冊であり、刮目して待っている(*3)。

こうやって他人様のコメントについて上からモノを言っている私も、某女性誌で、ちぃさぁくコメントしている。また、8月中旬、あるサイトに、この事件についてのコラムが出る予定。この種の時事ネタは「書いたはしからすぐ腐る」(松尾スズキ氏と河井克夫氏の共著より引用&アレンジ)ものだから、7月中旬に書いたコラムが8月中旬にどれだけの鮮度を保っているのか不安だけれど、そういうアンタのコメントはどうなのよ、という読者にはそちらをご確認いただき、判断を委ねるしかない。

(*1) 当初は使われていたが、しばらくしたら使われなくなった「通り魔」という認識枠組みが古いといえば古いのだけれど。新聞などをざっと見るかぎり、今は「無差別殺傷」という枠組みがメジャー。「突然通り過ぎて、出会った者に危害を与えるという悪魔(悪人)」(『新小辞林』第二版)と定義される「通り魔」では、トラックでつっこんで辺りを騒然とさせた上で殺傷に及んだ本件を指示しきれないという判断があったと思われる。

(*2) 原文は「闘えば何“が”もらえるだろうと夢みるプレカリアート闘争」(強調引用者)。たぶん“が”は“か”なので手を入れた上で引用。その他、この本そのものに誤字とおぼしき箇所多数。刊行まで時間が無かっただろうから、仕方ないけれども。

(*3) いま『論座』サイトを見たら、10月から休刊ということ。これからが正念場のフリーター論壇の舞台を引き受けてくれる場所はどこにあるのか、気になる。『ロスジェネ』(かもがわ出版)とか『フリーターズフリー』(人文社)などの自前の舞台は、テーマが特化しているゆえ多様な読者を取りこむという点でちょっと弱い。

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