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2009年1月の2件の記事

中村美亜『クィア・セクソロジー 性の思いこみを解きほぐす』をヨム

41zxssumhul ■ クィア・セクソロジー 性の思いこみを解きほぐす

中村 美亜著

定価 本体1800円+税

新書判206頁

2008年10月刊

インパクト出版会

ISBN 4755401917

『クィア・セクソロジー 性の思いこみを解きほぐす』は、「異性愛と同性愛はすっぱり区別できる」とか「人間には男と女しかいない」といった性についての思いこみを、セクソロジーの立場から「ほんとにそうなの?」と問いかけるエッセイ集。

静かながら毅然としたその問いかけは、凡人にはあまりに厳しすぎて、目をそらし、逃れようとする人もいるかもしれません。が、それは無駄な抵抗というもの。

というのも、その問いかけが、圧倒的な経験値の高さ――美亜さんは試行錯誤をしながらいまのジェンダーを手に入れた。本文参照――と圧倒的な知識量――ゴージャスな文献リスト参照――にもとづいたものだからです。

圧倒的な存在を前にすると、凡人は足がすくむ。逃げようったって、そうはいきません。

たとえば「わたしは『ふつうの異性愛者』だが、どれどれ、カワイソウな性的マイノリティの皆さんについていっちょ勉強しましょう」と本を手にした凡人サンがいるとします。

すると、「人間の性的指向は、異性愛、同性愛、両性愛の三つに分けられるものではない」という指摘にぶち当たります(63頁)。

そして、同性と性行動をしたことがなくても、ロマンティックな恋愛感情をいだいたことはないか、あるいは親しみや愛着をいだいたことはないかと、問われます。

過去の実体験ではどうか? そんなファンタジーを持ったことは? いつか体験してみたいという好奇心のレベルではどうか?

たたみかけるような問いかけに思考をめぐらせてみれば、「異性愛者」を自認している人でも、同性にたいしてそれなりの興味を持っていることに気づくはず。

「異性愛者」「同性愛者」「両性愛者」の区分が、きわめてあいまいなものであることに思いいたらざるをえません。

「性の思いこみ」が「解きほぐされる」瞬間です。

凡人でも賢い人なら「あ、クィアって自分のことだったんだ」という結論に至る。

思いこみが「解きほぐされる」ことをこえて「揉みしだかれる」瞬間とでもいいますか。

大学の講義で同性愛者の当事者言説を紹介すると、必ず出てくる「寛容」な感想があります。「僕/私は異性愛者だけど、友だちが同性愛者だとカミングアウトしたら、受け入れたい」というヤツです。

排除するよりはずっとましな反応です。

が、「自分はまともな異性愛者ですが」というところからは抜けきれていない。

このことはしばしば「同性愛者」をいらだたせ、困惑させます(※)。

「まとも」って何よ、「異性愛者」って何よ。

そんなふうに一発くらわせてくれるのが、圧倒的な美亜さんによる圧倒的な問いかけです(ちなみに、ご本人はいたっておだやかな方です)。

ついでながら、講義での実践例や学生の反応が豊富に紹介されていて、ジェンダー論やセクシュアリティ論を担当する教員には tips 集としても役だつことも付け加えておきます。

※ 最近書かれたものとして、バイセクシュアルの学生による、ゲイやレズビアンをとりあげたNHK『ハートをつなごう』にたいする感想があります。とても率直に書かれているうえに、受講生と同年代の意見なので大学の授業で紹介しました。国際基督教大学ジェンダー研究センター『ニューズレター』10号、2008年9月参照)。

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三橋順子『女装と日本人』をヨム

本、というのは不思議なもので、たんなる紙の束のくせに、著者のソウルががんがんに込められていると、読者にびんびんに伝わって、うわっ、これ、なんか知らんけど、あの、由美かおるとかがやってる気功術ですか? といった感じで、手にして一行読むだけで、書物が放つとてつもないパワーにひっくり返されそうになる、そういうメディアであったりします。

そんな由美かおる的読書体験を、三橋順子さんの『女装と日本人』、そして中村美亜さんの『クィア・セクソロジー』にてしました。

2879601 ■ 女装と日本人 講談社現代新書

三橋 順子著

定価 本体900円+税

新書判373頁

2008年9月刊

講談社

ISBN  4062879603

『女装と日本人』はヤマトタケルからはるな愛まで、日本の女装の歴史をつづったもの。

この本の見取り図は松岡正剛さんが美しくまとめておられるので、ここでは写真資料の豊富さがこの本の価値をいっそう高めていることを指摘します。

タレントやダンサーなどとちがい、芸能界に身をおいていているわけではない「アマチュア女装者」は、その存在が隠蔽されているため、いったいどのような出でたちをしているのか、門外漢には想像がつきにくいものです。

時代を超えるとなるとなおさらです。

そこを補ってくれるのが、写真。一目で「あ、こんな装いをしているのね」とわかる。

わかると、リアリティが持てる。彼女たちが、たしかに、この社会に生き、存在している(いた)ことに確信がもてる。

この確信こそは、「理解」や「共感」の前提条件であります。

写真の出典を見てみれば、一葉一葉の収集に、おそろしく労力がかかっていることがうかがえます。

たとえば、小沢昭一『日本の放浪芸』からの写真。『日本の放浪芸』というタイトルから女装写真が掲載されているとは連想しづらい。膨大な文献を渉猟するなかで発見されたのでしょう。

100万人のよる』『人間探求』などの風俗雑誌は、デジタル目次は完備されていないはずだから、一冊一冊、頁を繰られたのにちがいありません。

個人提供の写真は、提供者と著者の信頼関係なしには掲載しえないもの。その信頼関係の構築に要した年月と手間ひまを考えると、まったく何の関係もない一読者がこの写真を目にできたことが奇蹟のように思えてくる。

著者のソウルを感じるのはこんなディティールにだったりします。

三橋さんのブログによれば、編集者から写真点数の削除要請があったようですが、妥協しつつも必要ラインを死守した三橋さんはまったくもって正しかったといえましょう。

いいなぁ、と感じ入った写真は1964年に国鉄(当時)新宿駅東口の駅前広場で撮影された女装クラブメンバーを写したもの(221頁)。

当時の社会環境を考えると、女装者がお日様の下に出るということはひじょうに珍しいことだったようです。「うれしはずかし」な感じが写真から伝わってきます。

真ん中の人の、高度成長期の気分満載のスクエアなシルエットのジャケットと、おそろいのスカートがかわいらしいです。

左の人のファッションモデルなみにばっちり決まったポージングにも、時代の気分を感じます。

アマチュア女装者が、ある時代のある場所にきちんと地歩を固めていたことを、この写真からたしかに知ることができるのです。

(中村美亜『クィア・セクソロジー』感想文につづく)

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