« 本日10/22より渋谷にて『百合子、ダスヴィダーニヤ』(今晩京都の映画祭での上映も) | トップページ | 韓洪九先生講演会「韓国から見たフクシマ」11月8日@東経大 »

「音楽レビュー」とは何かを求めて「生活綴り方」に行き着いた話

 無人島にはチャンミンつきのつりどうぐとユノつきのライターを持参したい澁谷ですこんにちは。

 唐突に始まります。本記事の目的は9月28日リリースの東方神起5枚目の日本版アルバム『TONE』の音楽レビューを書くための準備として「音楽レビューとは何か」を明らかにすることである。準備なので『TONE』や東方神起についての言及はナシ。とっととレビューだけ読ませろやという方は近ぢかアップ予定の次エントリ(追記 12月31日エントリに執筆しました)へ飛ばれたい(ただし、結果として「音楽レビュー」にはならなかった。代わりに「音楽版・生活綴り方」というべきものになった)。

 思えば、東方神起について当ブログその他であれこれ発言してきたが、まともに音楽レビューというものをしたことがなかった。音階の知識がないのに音楽レビューをするのは不遜だと思っていたからである。ムダに長くピアノを習っていたので、楽譜は読めるものの、音階の構造が分かっていない。

 中学時代、音階の変化を問う音楽のテストがまったくできなかった。「嬰ハ短調を○度転調したら何になるか」といった高度な知識が問われるもので、私立とはいえ中学の音楽でそこまでやるか?との疑問を禁じえない(*1)。一応わたくしは勉強好きであるから、友だちに尋ねて一生懸命理解しようとするのだが、どうしても理解できない。クラスメートの音楽のテストの平均点はだいたい70点ぐらいだったと記憶しているが、平均点以上を取ったことがない。高得点を得ている者のなかには他の教科はできないけど音楽はオッケーみたいな人もいて、おそらくコツがあるんだろうなと思いつつ、卒業してしまった。

 その後、大学院オーバードクター時代に後輩にギターを習ったさい、またも音階知識が要求されることとなり、やっぱり克服しておかねばならないことはいつまでもついてまわるのだなぁと悟り、いつかはしっかり勉強したい、さすれば音楽の聴き方も変わるはず、と思ったのだが、ズルズルと今日まで来てしまい、あいかわらず音階について無知である。

 最近この音階問題が再燃したことがあった。それは7月31日放送のTBSラジオ『菊地成孔の粋な夜電波』における少女時代の楽曲アナリーゼを聴いた時。菊地さんは知識がないリスナーにも分かるように、「実家にしょっちゅう帰るKARAとあまり帰らない少女時代」というふうに比喩を用いて親切に「中心音(トニック)」なるものについて解説してくれるのだが、当方のほうで妙なコンプレックスがあるため、やっぱ音階の知識があったほうがクリアに分かるのだろうなぁ、ちゃんと勉強しておけばよかったなぁとクヨクヨ思いながら、「KARA-実家帰る、少女時代-帰らない」と他人が見たら意味不明の言辞をメモに書きつけたのだった。

 そんなていたらくであるから、音楽レビューというものにたいして構えてしまう。いったい何をしたら音楽レビューをしたことになるのだろうか。そこで、『音楽の文章セミナー プログラム・ノートから論文まで』(久保田慶一、2006年)、『音楽の文章術 レポートの作成から表現の技法まで』(リチャード・J・ウィンジェル、宮澤淳一・小倉眞理訳、1994年)という以前買っておいた音大生向けの教科書をひっぱりだしてきて、如上の疑問を解いてみることにした。なんで買っておいたかというと、いつか東方神起の音楽レビューを書きたい、それにさいしてはきちんとした方法論にそって書きたい、と思っていたからで、まさに今回が好機といえる。

■音楽レビューの参考書がいうことには

 まず1冊目。国立音楽大学教授・久保田慶一による『音楽の文章セミナー』は、音楽にまつわる文章を3種類に分類する(*2)。そして、順番があとになるほど専門性が高くなるとしている。

1) 新聞や雑誌に掲載される演奏批評やエッセイ
2) 音楽書や解説書に書かれた文章
3) 専門的な論文
演奏会用のプログラム・ノートやCDのライナー・ノートは、エッセイと楽曲解説の中間ぐらいに位置する(14頁)。

 そして、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第14番《月光》第1楽章をそれぞれの立場から扱った文章を例示する。1)の演奏批評は、演奏者の近年の活動について言及しつつ、演奏会の様子、楽曲から得た批評者の印象を記したものである。

 1)と2)の中間に位置するCDのライナー・ノートの例では、副題の《月光》にまつわるうんちくから始まり、当該曲がソナタというよりも幻想曲の傾向を持つことが指摘され、演奏のテンポや構造について述べている。「アダージョ・ソステヌート」とか「第1主題、第2主題」などの専門用語が混ざってくる。

 2)の楽曲解説の例はさらに専門性が高い。形式、テンポ、音階、拍子について簡潔な言及があったのち、曲の流れにそった「曲想〔楽曲の構想やテーマのこと〕」が述べられている。「4小節の序奏ののち、淡々として第1の主題(譜例1)が現れ、ロ長調のもうひとつの旋律(譜例2)が続く。第1の主題によって始まる中間部では、3連譜が屈折しながら高音域に上がっていってやや不安な情緒をみせ」という調子である。譜例とは当該部分の楽譜のことで、レビューとあわせて掲載されている(大木正興・大木正純1992『作曲家別名曲解説ライブラリー3 ベートーヴェン』387頁、cited in 久保田2006、17頁)。

 3)の音楽論文の例は、「クァジ・ウナ・ファンタジア」という形式の定義をめぐる先行研究をいくつか引用したのち、ある1つに軍配をあげ、その根拠として、冒頭楽章の「低声の根音進行パターン」が「ファンタジー原理」を体現していることを挙げている。「4-6小節のカンデンツ型とオルゲルプンクトの連続」とか「ファンタジーレン」とか、専門用語がバンバン出ており、ド素人にとっては何がなんだか、という感じである。

 こうした例を見てみるに、中学の音階のテストができなかった私にとって、2)と3)の執筆はムリである。それ以前に、読んでみて「わぁ面白い。私もこんな文章書きたいなー」と思えるかというとそうではない。ので、必然的にド素人は1)に落ち着く。つまり、演者の活動にまつわる客観的情報や、楽曲がおのれの心に惹起した主観的印象などを書くということになる。これならド素人の私にもできそうだ。

 もう1冊の参考書は、音楽史、中世音楽を専門とするカリフォルニア大学教授・リチャード・J・ウィンジェルによる『音楽の文章術』。音楽について書く時にすべきは、「様式分析」であるという。様式分析とは、「作品がどのように組み立てられ、何が論理と一貫性をもたらし、その当時の様式の重要な発達にどのように関係したかについて深く理解すること」と説明される(13頁)。ただし、ここでいう分析は厳密な意味での科学ではない。かならずしも定量化できるわけでもないし、明確に定義づけられる答えを伴っているわけでもない(10頁)。

 ではその分析をするにさいし、具体的にどんな作業をしたらよいのか。筆者は一覧表を作れという。主題を構成する素材がどこで繰返し使われているのか、調性の範囲はどう区分されるか、終止形の類型はどうなっているか、作品のあらゆるセクションを拾い出して表にまとめてみろという。だが、これは準備段階にすぎない。これをベースとして、作品の中のどの事象が重要な意味をもっているか、一般的な時代様式に作品がどのように関連しているのかを最終的に判断しなければならないという(11-2頁)。

 この時点で、ド素人としてはすでに困難を覚える。調性って、終止形ってナニ、って話である。やはり以前購入しておいた『図解雑学 CDでわかる音楽の科学』(岩宮眞一、2009年)によれば、調性とはピッチ(音の高さ)の変化をメロディとして理解する枠組みの一つ。そして、曲が何調か(ハ長調とかイ短調とか)を判断するよすがを調性感という(61、86頁)。

 とすれば、「調性の範囲はどう区分されるか」とは、何小節から何小節までが何調で、ってことが分かればよいということだろうか? しかし、私に分かるのは長調と短調の違いのみで――長調は陽気で、短調は悲しげ。だいたい誰でも分かることだ――それがハなのかイなのかまでは分からない。

 では、終止形とは? 「曲の終わりやフレーズの大きな段落などで、和音の流れによって一つの終わりを形作ること」で、4つのパターンがあると河合楽器製作所のウェブ音楽辞書『意美音』では説明され、具体的に楽譜も掲げられている。

 いずれにせよ、ウィンジェル先生がやれという「様式分析」がド素人にとってハードルの高いものであることは理解した。ちなみに、1冊目の『音楽の文章セミナー』で2)楽曲解説とされた「4小節の序奏ののち、淡々として第1の主題(譜例1)が現れ、ロ長調のもうひとつの旋律(譜例2)が続く」式の文章は、『音楽の文章術』では「羅列型」と名付けられ「本当の分析とはいえない」と退けられている。また、楽器の擬人化(「ヴィオラはみずからの簡潔な主題によってさえぎろうと懸命になるのだが、木管楽器群はそれに心動かされることなく……」)、とっぴな比喩(「序奏部は主題をもたない。しかし、これから始まる楽章を味わうための素晴らしい食前酒を提供してくれる」)も無意味だからやめておけといっている(6-8頁)(だとすれば、アノ音楽雑誌とかアノ音楽雑誌は、無意味な文章の固まりということになりはしまいか)。

 以上、何をしたら音楽レビューをしたことになるのかを調べた。『音楽の文章セミナー』では、演者の活動にまつわる客観的情報や、楽曲がおのれの心に惹起した印象などを書いて〈も〉、いちおう音楽レビューとして許容されることが明らかになった。しかし、『音楽の文章術』では、調性の範囲や終止形の類型といった要素を把握した上で「様式分析」を行うことが求められ、知識のないド素人には困難であることが分かった。

 これをふまえれば、『TONE』の音楽レビューをするにさいして音階知識のない私に許されたチョイスは、「最近、東方さんはこんな活動してますネ」という客観的情報を列挙し、「この曲を聴いた時に私はこう思ったヨ」という印象を記述するということになる。

■書きたい/読みたいのは「音楽版・生活綴り方」

 悪くない。悪くないんだが、食指が動かない。客観的情報の列挙ならもっと詳しいサイトがある。印象の記述だけでは「読ませる」文章を書く自信がない。印象の記述のみをもって「読ませる」文章を書く芸達者がいることは知っているが、自分にはそれができない。

 では私はどのような形で東方神起の音楽について言及をしたいのか。それをつらつら考えてみるに、「聴いた時の背景(コンテクスト)も込みで楽曲(コンテンツ)の印象を示す」という解にたどりつく。

 当たり前の話だが、トンペンにかぎらず全ての音楽リスナーは特定の「背景」のなかで音楽を聴いている。学校や会社の帰りに電車でとか、残業でひとりぽつんとフロアに残された状態でとか、家事をしながらとか。誰も真空状態で音楽を聴いているわけではない。ご自慢のオーディオセットの前に鎮座して「音楽を聴くことにのみ集中する時間」を持っているオーディオマニアですら、「ご自慢のオーディオセットの前」という特定の場所で「音楽を聴くことにのみ集中する時間」という特定の時間のなかで聴いているわけで、なんぴとも「背景」からは逃れられないのである。

 「楽曲」から受ける印象は聴取時の「背景」によって変わると考えても大過はなかろう。たとえば、失恋した女性が喫茶店(あるいはバー)のマスターにおそらくカウンターごしに語りかける歌詞をけだるい歌声とシンプルなギター伴奏で聴かせる中島みゆきの「ミルク32」(アルバム『愛していると云ってくれ』所収、1978年)を氷雨が降る12月の夜道を歩きながら聴いたときは、蒸気がもわっとたつキッチンが目前にうかび、あったかい感じがして、マスターが多忙であることを知りながらも話しかけずにはおれない女性の気持ちに共感したものだが、ガンガンに太陽が照りつける8月の淡路島で同じ曲を聴いたときは「キッチンも女の人も暑っ!」と思った。

 なので、「楽曲」の印象を記すときはどんな「背景」で聴いたのかという情報も一緒に書くほうが親切だ。それに、自分が読み手となった場合もそっちのほうが楽しい。以前、東方神起の韓国2集アルバム『Rising Sun』を聴きながらランニングをしているというあるブロガーさんが、1曲目の「Tonight」から走りはじめ、じょじょにペースを上げてゆき、3曲目の「Rising Sun」の「Slow Down」の掛け声でペースを下げていくと書いていたのを読み、東方神起がいろいろな人の生活にいろいろな形で組み込まれているのを知って感動したものだった。

 そう。おそらく自分が書きたい/読みたいのは、東方神起がどんな形でリスナーの生活ないし人生に組み込まれているか、ということだ。「聴いた時の背景(コンテクスト)も込みで楽曲(コンテンツ)の印象を示す」ということは、たんに背景と印象を併記することにとどまらず、ある楽曲をネタとしながら「当該楽曲(または当該歌手)と私の生活(または私の人生)とのかかわり」を示すことだと考える。

 かような形式の文章はもはや「音楽レビュー」ではない。この種の文章に与えられる名前のうち相応しいものは、「生活綴り方(綴方)」であろう。「生活綴り方」とは、教育界でいうところの児童作文のことで、名前のとおり「自分の生活を綴る文章」のことである。1910年代に提唱され、これをすすめる運動を「生活綴り方運動」といい、1950年代にはそれの大人むけ版である「生活記録運動」があった。

 なるほど自分が書きたい/読みたいのは「音楽版・生活綴り方」であったんだねー、ということが明らかになったところで、次エントリでは『TONE』をネタにこれを実践してみる。

 (*1) 中学時代の音楽の担当であり、名物教師でもあったX先生について懐かしくなったので書きとめておく。きわめてアクの強い、というか、個性的かつ女子教育に情熱を燃やす当時50代ぐらいの男性で、たしか中学の2年間、音楽はこの先生だった。ガタイは小さいが全身にエネルギーがみなぎっていて、「無気力、無感情はダメ!」と生徒を叱り、「おはようございます」の良い挨拶の仕方と悪い仕方を例示する。良いほうは背筋がぴっと伸びて腹から声が出ているのだが、悪いほうは背がぐんにゃり曲がっていて声が出ていない。しかし、良いバージョンも日常生活というコンテクストに置き直してみると発声がきわめて不自然であり、「良き挨拶」でありながら見る者に認知的不協和を覚えさせるX先生のモノマネは当時の私の鉄板ネタであった。また、「女の子は花を愛でる心を忘れてはいけない」という信条のもと学内に花屋を誘致するも経営不振で閉店させるなど、自らの理想を追い求めるあまり周囲を不幸に陥れる「熱い人」に典型的な一面も備えていた。そういえば、夏休みの宿題は、クラシック音楽を20曲ていど聴いてレビューをさせる、きわめてX先生らしい内容だった。結論的には今回それをすることにはならなかったが、「音楽レビュー」の扉はX先生によってすでに開かれていたということか。

 (*2) 以下、プロフィールは書籍に掲載されているもの。

|

« 本日10/22より渋谷にて『百合子、ダスヴィダーニヤ』(今晩京都の映画祭での上映も) | トップページ | 韓洪九先生講演会「韓国から見たフクシマ」11月8日@東経大 »

音楽」カテゴリの記事